垂水駅から商大筋を北へ行くと、
「石造宝篋印塔 (遊女塚)」と書かれ標柱が立っている。
ここは古くからの墓地(西垂水墓地)だが、横の階段をあがってみると、そこにひときわ目立つ大きな石塔を見ることができる。
全国でもあまり例を見ない、4mに及ぶこの「宝篋印塔(ほうきょいんとう) 」、通称「乙女塚」は14世紀のものとされ、県の重要文化財になっている。
最近、草木で覆われていたこの場所が突然見事に伐採され、その少し前に、北下方にビルが建ったこともあって、土地整理でも行われるのかと思ったら、なんと火の不始末による火災が発生したとのこと。
同墓地管理会の張り紙で知った。
この石塔は、1300年代に建てられたが、当時は五色塚古墳の東側にあり、階段を上った高台にあったといわれている。
「遊女塚」とあるのは、大阪(神崎)の遊女が、筑前博多の商人を追っていく途中、この地で溺死、それを祀ったものという伝承から。
実際は、石塔に南北朝時代の建武4年(4年というところから北朝側の文化圏との話も)、勧請士忠禅師、大工沙弥願一と銘が入っている(現在は読み取り困難)ので、仏教の布教などに関係しているのではといわれている。
士忠禅師は、名谷の明王寺にある小さな「宝篋印塔 」に、「士忠禅師100日」との銘もあり、この地で活動されていたお坊さんとの説も。
「宝篋印塔 」とは、もとは「宝篋印陀羅尼経」という「書写して塔中に安置すれば七宝に変じて無量の神秘力を発する」というありがたいお経を納めた塔で、仏舎利塔(お釈迦様のお骨を納めた塔)の流れをくむもの。日本で石塔として独自に発展した。
塔身は大日如来を表し、塔に刻まれているそれぞれの梵字は四如来、4隅の飾り突起は四菩薩と四天王を表しているそう。台座にはハスの花の彫刻も。
四仏の位置が東西南北の方角に合致しているので、方角の位置標としても利用されていたという。
旧西垂水村の墓地は、五色塚古墳近くにあり、明治29年(1896年)、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が墓地を横断したことから、長い葬列が通りづらくなるなどの結果、現在地に移転したといわれている。
その端にあった「宝篋印塔 」も、その後この地へ移転した。跡地には大阪の料理旅館を建てる計画があったといい、その時の通貨で、約1万円で売却されたと、古老から聞いた。
「それで太鼓を買った」と聞いた時は、高い太鼓だなと思ったが、のちに西垂水の「布団太鼓」のことだと気づいた。
旧垂水村は、播磨地方によくみられる二墓制だったそうで、葬列は墓地についたあと、棺を担いで宝篋印塔 を3回まわって埋葬し、爪と髪を持って帰り、寺にも埋葬したという。
垂水観光ボランティアで説明をしていた時、地元の方が参加されており、
「確かにお盆の時にここと、お寺のお墓、両方に参ります。そういうことだったんですね」と、納得されていた。
「宝篋印塔 」。
この名を初めて聴かれる方も多いと思うが、案外西日本ではスタンダードで、垂水にもここ以外に、
・明王寺・西名若宮神社・多聞寺・塩屋久昌寺・乙姫神社近くの第2神明道路沿いなど、多数あり。
形が独特なので、お寺に参られた時など、探してみてはいかが?
(2018年9月) (堀)